2014年10月19日
東日本周遊鉄道旅行2014・2日目(10/12)
阪神タイガースが予想外の4連勝でCSを勝ち上がり、日本シリーズ出場決定というのが半ばポカンとした感じですが、何はともあれめでたいことに変わりなく、ここまできたら和田監督の胴上げも見てみたいと思うようになってきた今日この頃、今日はちょうど1週間前の2日目(10/12)の秋田から長岡までの旅程について記します。
前日の就寝は0時半過ぎで、この日の起床も5時半。
始発列車の次の便とはいえ、乗り過ごすと平泉駅までの直通列車を3時間ほど待たないといけないようなピンチに見舞われるため、眠いのもそこそこに、何とか始発バスに乗り込んで秋田駅に戻り、例によってNEWDAYSでサンドイッチとおにぎり、ポカリを購入。
奥羽線普通列車に乗り込み、まずは横手駅を目指す。
秋田~大曲間は電車でGO!でもよく遊んでいた区間であり、実際の風景を見ながら進んでいくが、日曜朝の普通列車は高校生の乗客が実に多い。
移動手段を持たない彼らにとっては電車が生命線なのだと、実家のある指宿枕崎線沿線と変わらぬ車内風景を朝日を浴びながら南に進んでいくのだが、ところどころ霧がかかっていて、実に幻想的である。
気温が1桁まで下がるも、水温はまだまだ10数℃であるから、霧が出やすい状況である。
そんなこんなで横手駅までやってきて、数分の乗り換えのため駅前に出ることもなくそのまま北上線ディーゼルカーに乗り換える。
この日最初の目的地である平泉へ向かうのに最短距離で行けるのが横手駅と北上駅で乗り換えて行く手法なのだが、今日唯一の乗り換え時間1桁ということもあり、ここをしのげば後は楽、そんな感じであった。
ディーゼルカーに揺られて奥羽山脈を越えて岩手県に入り、終点の北上駅では数十分程度の列車待ちとなる。
親友と前日分のタクシー代やらバス代やら宿泊費やらの清算を駅前のベンチで終えて、この日乗車する分の特急券と翌日に乗る特急券を指定席券売機で回収する。
なお、新幹線の指定席券のえきねっと割引は購入時に適用されており、概ね1割引である。
旅費もささやかではあるが浮いたのを確認したところで、東北線普通列車で平泉へ向かう。
3連休の中日ということもあり、客は多い。
平泉駅で大半の客が下車し、我々も跨線橋を渡って平泉駅を出る。
平泉駅には15分周期(※10/12の場合。30分周期の場合もある)で1回150円均一、1日乗車券400円で乗れる巡回バスが走っており、これに乗車する。
向かうは中尊寺。
まあ、時間があり過ぎればゆっくりと各地を巡りたいのであるが、いかんせん移動時間と昼食時間込みで3時間しか確保できていない。
というわけで、本命のみでも見に行くべく、中尊寺前で下車し、参道に入る。

しかし、キャリーバッグで上ろうにもなかなかの勾配があり、転がせないような段差もある。
そこを見かねてくれたか、平泉町観光協会の地元のガイドさんから声がかかる。
「入口のところのお土産屋さんで荷物を預かってくれますよ」
それはありがたいと、いったん引き返し、上の写真のすぐ左側にある土産店に入り、半信半疑でレジの方に「荷物を預かってもらえると聞いたのですが・・・」と尋ね、預かってもらえることに成功。
観光客の困りごとを一目で見抜くとは、世界遺産平泉の観光協会のガイドは一流である。
身が軽くなったところで、改めて参道を上がっていき、やってきました中尊寺。

参拝前にお線香をあげようと着火に一苦労して、ようやく線香を置こうとした時、声をかけられた。
「間もなく踊りが始まりますので早く出てください」
こりゃまずいと最後の焼香客になってしまったのであるが、間一髪踊り連が入場してくる前に本堂前へ退避するのに成功、幼稚園児から高校生くらいの女子だらけの踊り連が入って来たのであるが、なんでも「津軽石さんさ踊り」といって、宮古市から東日本大震災での支援への感謝を込めて奉演されたとのこと。

10分弱踊りを見学した後、本堂で手を合わせ、国宝の金色堂は、まさかの通過。
理由は「800円払うのが嫌」という、実につまらないもの。
まあ、行列もできていたため、来るとこ来たからいいか、といったものですが、本来ならばこちらも見ておくべきだったことは言うまでもありません。
そして、金色堂を見て帰らなかったことによる罰か、撤収ルートは車が通れるような一般道をひたすら下る羽目になり、出たところは先ほどの参道の入口。
まあ、iPad2で進行ルートを確認しながらでしたので、迷うような羽目にはなっておらず、結果オーライといったところで、荷物を回収し、店で牛タンつくね串を買って食べ、土産を買い、再び巡回バスへ。
平泉駅に乗った時と同じおばちゃん運転手だったのには驚きでしたが、平泉駅に戻り、ちょうどお昼時ということで、わんこそばを食べようと芭蕉館へ。
なお、芭蕉館は2つあり、駅前ではない方へ。
この両店舗は紛らわしいため、事前にウェブサイトを見ておいたのであるが、由来をきちんと書いている方が正しいのではないかと直感して、わざわざ駅から2分程歩いたところまで行ってみた次第であった。
店内には著名人が訪れたというサインが数多く飾ってあり、自分は特わんこそば(2,500円)を食べることに。
しばらくして、2段分のわんこそばが御膳とともに運ばれてきて、テレビで見たわんこそば大食い大会を彷彿とさせる状況に期待と不安を感じつつ、いろんな薬味でそばを味わっていく。
なかなかそば好きにはたまらない。
完食して、さらにもう1段までは無料のため、お代わりして食べ進めるが、さすがに腹八分目を優に超えており、もう晩飯抜きでもいい、と思うほどであった。
店を出て平泉駅に戻ると、ちょうどディーゼルカーが入線している。
しかし、跨線橋の上で無情にもエンジン回転を上げて出発していく。
あと数十秒というところであった。
致し方なく、観光地と思えない人のいないホームのベンチで本来乗る列車が来るのを待ち、一ノ関駅へ。
ここで新幹線に乗り換えて、南に下るわけであるが、親友と旅するのも郡山駅まで。
親友は翌日が仕事のため、このまま宇都宮駅に戻るというわけで、くれぐれも寝過して大宮駅まで行かないようくぎを刺しつつ、郡山駅で下車する。
ここからは一人旅となるのであるが、向かう先は会津若松駅。
薩摩(と言っても今は大隅ではあるが;;)の人間が会津に行く、というのは、戊辰戦争から140年以上経った今でも、ちょっとした緊張感がある。
とは言え、自分の先祖は平安時代の武士であって、島津家の家来衆でないため、会津人を殺傷したという歴史は持ち合わせていない。
去年の大河ドラマ「八重の桜」の前半期の舞台だけあって、どんな場所か見てみたい、そう思ってのことである。



485系電車の生き残りの1つである快速あいづライナー6号に乗り込み、一路磐越西線を西に進む。
途中、虹彩が見えたので撮影した。

会津から見て敵国の人間とはいえ、それを迎え入れてくれた、そんな気がした。
幼稚園の時に演奏した「会津磐梯山」で歌われている磐梯山を見ながら、「会津磐梯山はぁ~宝の~山よ~」と、30年近く前に聞いた歌を思い起こしながら、列車は日没間近の会津若松駅に到着。

ソースかつ丼を食べようと当初考えていたのだが、昼に食べたわんこそばの影響で、とてもカツ丼を食べようという気にならない。
そんなわけで、会津若松市内の観光バスはないのか検索していたら、「ハイカラさん」なる巡回バスがある、という情報に行きついた。
ちょうど17時に駅前を発車する、ということなので、急いで駅前に来て、少しするとそのバスが来た。

平泉ではおばちゃん運転手であったが、会津若松では女性運転手であった。
ロングシートで一番前の座席に陣取って、市内を巡る。
会津若松の道は狭い道が多く、こんなところをよくバスで走れるなと感心しつつ、各観光スポットを車内から見る。
現在の千円札に描かれている野口英世は、ここ会津若松の出身だし、幕末から明治・大正期にかけての偉人達について凝縮して情報を得られた貴重な54分間であった。
再び日没後の会津若松駅に戻り、磐越西線の新津行き最終列車に乗り込む。
2年前の米坂線の時もそうであったが、東北地方と新潟県を東西に結ぶ路線の最終列車は19時前後の発車である。
何はともあれ、当時と同じくキハ110系に揺られて磐越西線の西に進む。
新津駅に予定通りの21時前に着き、これまた女性駅員に「らくらくトレイン信越」の乗車整理券を買う。
これまた2年ぶりのらくらくトレイン信越乗車になるわけだが、車内は新潟駅で飲みまくった人の酒臭さが充満していた。
ちょうど22時に長岡駅に到着。
2年前は、新潟駅から新幹線のグリーン車で長岡駅まで来て、ここかららくらくトレイン信越に乗車、終点の直江津駅に向かったのだが、今回はホテルハイマートが満室ということでそれもできず、長岡駅前の洋風カツ丼の店へ向かう。
しかし、店は休みで、致し方なく空腹のままホテル入りし、空腹のまま床に就いた。
せめてもの救いは、23時に寝れたことであろうか。
こうして、2日目は幕を閉じたのであった。
>>3日目【長岡→十日町→長野→東京→帰宅】へ続く
前日の就寝は0時半過ぎで、この日の起床も5時半。
始発列車の次の便とはいえ、乗り過ごすと平泉駅までの直通列車を3時間ほど待たないといけないようなピンチに見舞われるため、眠いのもそこそこに、何とか始発バスに乗り込んで秋田駅に戻り、例によってNEWDAYSでサンドイッチとおにぎり、ポカリを購入。
奥羽線普通列車に乗り込み、まずは横手駅を目指す。
秋田~大曲間は電車でGO!でもよく遊んでいた区間であり、実際の風景を見ながら進んでいくが、日曜朝の普通列車は高校生の乗客が実に多い。
移動手段を持たない彼らにとっては電車が生命線なのだと、実家のある指宿枕崎線沿線と変わらぬ車内風景を朝日を浴びながら南に進んでいくのだが、ところどころ霧がかかっていて、実に幻想的である。
気温が1桁まで下がるも、水温はまだまだ10数℃であるから、霧が出やすい状況である。
そんなこんなで横手駅までやってきて、数分の乗り換えのため駅前に出ることもなくそのまま北上線ディーゼルカーに乗り換える。
この日最初の目的地である平泉へ向かうのに最短距離で行けるのが横手駅と北上駅で乗り換えて行く手法なのだが、今日唯一の乗り換え時間1桁ということもあり、ここをしのげば後は楽、そんな感じであった。
ディーゼルカーに揺られて奥羽山脈を越えて岩手県に入り、終点の北上駅では数十分程度の列車待ちとなる。
親友と前日分のタクシー代やらバス代やら宿泊費やらの清算を駅前のベンチで終えて、この日乗車する分の特急券と翌日に乗る特急券を指定席券売機で回収する。
なお、新幹線の指定席券のえきねっと割引は購入時に適用されており、概ね1割引である。
旅費もささやかではあるが浮いたのを確認したところで、東北線普通列車で平泉へ向かう。
3連休の中日ということもあり、客は多い。
平泉駅で大半の客が下車し、我々も跨線橋を渡って平泉駅を出る。
平泉駅には15分周期(※10/12の場合。30分周期の場合もある)で1回150円均一、1日乗車券400円で乗れる巡回バスが走っており、これに乗車する。
向かうは中尊寺。
まあ、時間があり過ぎればゆっくりと各地を巡りたいのであるが、いかんせん移動時間と昼食時間込みで3時間しか確保できていない。
というわけで、本命のみでも見に行くべく、中尊寺前で下車し、参道に入る。

しかし、キャリーバッグで上ろうにもなかなかの勾配があり、転がせないような段差もある。
そこを見かねてくれたか、平泉町観光協会の地元のガイドさんから声がかかる。
「入口のところのお土産屋さんで荷物を預かってくれますよ」
それはありがたいと、いったん引き返し、上の写真のすぐ左側にある土産店に入り、半信半疑でレジの方に「荷物を預かってもらえると聞いたのですが・・・」と尋ね、預かってもらえることに成功。
観光客の困りごとを一目で見抜くとは、世界遺産平泉の観光協会のガイドは一流である。
身が軽くなったところで、改めて参道を上がっていき、やってきました中尊寺。

参拝前にお線香をあげようと着火に一苦労して、ようやく線香を置こうとした時、声をかけられた。
「間もなく踊りが始まりますので早く出てください」
こりゃまずいと最後の焼香客になってしまったのであるが、間一髪踊り連が入場してくる前に本堂前へ退避するのに成功、幼稚園児から高校生くらいの女子だらけの踊り連が入って来たのであるが、なんでも「津軽石さんさ踊り」といって、宮古市から東日本大震災での支援への感謝を込めて奉演されたとのこと。

10分弱踊りを見学した後、本堂で手を合わせ、国宝の金色堂は、まさかの通過。
理由は「800円払うのが嫌」という、実につまらないもの。
まあ、行列もできていたため、来るとこ来たからいいか、といったものですが、本来ならばこちらも見ておくべきだったことは言うまでもありません。
そして、金色堂を見て帰らなかったことによる罰か、撤収ルートは車が通れるような一般道をひたすら下る羽目になり、出たところは先ほどの参道の入口。
まあ、iPad2で進行ルートを確認しながらでしたので、迷うような羽目にはなっておらず、結果オーライといったところで、荷物を回収し、店で牛タンつくね串を買って食べ、土産を買い、再び巡回バスへ。
平泉駅に乗った時と同じおばちゃん運転手だったのには驚きでしたが、平泉駅に戻り、ちょうどお昼時ということで、わんこそばを食べようと芭蕉館へ。
なお、芭蕉館は2つあり、駅前ではない方へ。
この両店舗は紛らわしいため、事前にウェブサイトを見ておいたのであるが、由来をきちんと書いている方が正しいのではないかと直感して、わざわざ駅から2分程歩いたところまで行ってみた次第であった。
店内には著名人が訪れたというサインが数多く飾ってあり、自分は特わんこそば(2,500円)を食べることに。
しばらくして、2段分のわんこそばが御膳とともに運ばれてきて、テレビで見たわんこそば大食い大会を彷彿とさせる状況に期待と不安を感じつつ、いろんな薬味でそばを味わっていく。
なかなかそば好きにはたまらない。
完食して、さらにもう1段までは無料のため、お代わりして食べ進めるが、さすがに腹八分目を優に超えており、もう晩飯抜きでもいい、と思うほどであった。
店を出て平泉駅に戻ると、ちょうどディーゼルカーが入線している。
しかし、跨線橋の上で無情にもエンジン回転を上げて出発していく。
あと数十秒というところであった。
致し方なく、観光地と思えない人のいないホームのベンチで本来乗る列車が来るのを待ち、一ノ関駅へ。
ここで新幹線に乗り換えて、南に下るわけであるが、親友と旅するのも郡山駅まで。
親友は翌日が仕事のため、このまま宇都宮駅に戻るというわけで、くれぐれも寝過して大宮駅まで行かないようくぎを刺しつつ、郡山駅で下車する。
ここからは一人旅となるのであるが、向かう先は会津若松駅。
薩摩(と言っても今は大隅ではあるが;;)の人間が会津に行く、というのは、戊辰戦争から140年以上経った今でも、ちょっとした緊張感がある。
とは言え、自分の先祖は平安時代の武士であって、島津家の家来衆でないため、会津人を殺傷したという歴史は持ち合わせていない。
去年の大河ドラマ「八重の桜」の前半期の舞台だけあって、どんな場所か見てみたい、そう思ってのことである。



485系電車の生き残りの1つである快速あいづライナー6号に乗り込み、一路磐越西線を西に進む。
途中、虹彩が見えたので撮影した。

会津から見て敵国の人間とはいえ、それを迎え入れてくれた、そんな気がした。
幼稚園の時に演奏した「会津磐梯山」で歌われている磐梯山を見ながら、「会津磐梯山はぁ~宝の~山よ~」と、30年近く前に聞いた歌を思い起こしながら、列車は日没間近の会津若松駅に到着。

ソースかつ丼を食べようと当初考えていたのだが、昼に食べたわんこそばの影響で、とてもカツ丼を食べようという気にならない。
そんなわけで、会津若松市内の観光バスはないのか検索していたら、「ハイカラさん」なる巡回バスがある、という情報に行きついた。
ちょうど17時に駅前を発車する、ということなので、急いで駅前に来て、少しするとそのバスが来た。

平泉ではおばちゃん運転手であったが、会津若松では女性運転手であった。
ロングシートで一番前の座席に陣取って、市内を巡る。
会津若松の道は狭い道が多く、こんなところをよくバスで走れるなと感心しつつ、各観光スポットを車内から見る。
現在の千円札に描かれている野口英世は、ここ会津若松の出身だし、幕末から明治・大正期にかけての偉人達について凝縮して情報を得られた貴重な54分間であった。
再び日没後の会津若松駅に戻り、磐越西線の新津行き最終列車に乗り込む。
2年前の米坂線の時もそうであったが、東北地方と新潟県を東西に結ぶ路線の最終列車は19時前後の発車である。
何はともあれ、当時と同じくキハ110系に揺られて磐越西線の西に進む。
新津駅に予定通りの21時前に着き、これまた女性駅員に「らくらくトレイン信越」の乗車整理券を買う。
これまた2年ぶりのらくらくトレイン信越乗車になるわけだが、車内は新潟駅で飲みまくった人の酒臭さが充満していた。
ちょうど22時に長岡駅に到着。
2年前は、新潟駅から新幹線のグリーン車で長岡駅まで来て、ここかららくらくトレイン信越に乗車、終点の直江津駅に向かったのだが、今回はホテルハイマートが満室ということでそれもできず、長岡駅前の洋風カツ丼の店へ向かう。
しかし、店は休みで、致し方なく空腹のままホテル入りし、空腹のまま床に就いた。
せめてもの救いは、23時に寝れたことであろうか。
こうして、2日目は幕を閉じたのであった。
>>3日目【長岡→十日町→長野→東京→帰宅】へ続く